大判例

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福岡高等裁判所 平成2年(行コ)4号 判決 1992年12月18日

控訴人・被控訴人(以下「一審原告」という)

岡正治

右補助参加人

荒川澄

高實康稔

岡村彌生

右四名訴訟代理人弁護士

松永保彦

中村照美

浅井敞

被控訴人・控訴人(以下「一審被告」という。)

本島等

右補助参加人

長崎市

右代表者市長

本島等

右両名訴訟代理人弁護士

松尾千秋

馬場正裕

主文

一  一審被告の控訴に基づき、原判決中、一審被告の敗訴部分を取り消す。

二  右取消しに係る部分の一審原告の請求を棄却する。

三  一審原告の控訴を棄却する。

四  訴訟費用は、補助参加により生じた分を含め、第一、二審とも、一審原告及び一審原告補助参加人らの負担とする。

事実

第一  当事者の求めた裁判

一  一審原告の控訴の趣旨

1  原判決を次のとおり変更する。

2  一審被告は長崎市に対し、金五六万円及びこれに対する昭和五七年八月一七日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

3  訴訟費用は、第一、二審とも、一審被告及び一審被告補助参加人の負担とする。

二  一審被告の答弁

1  一審原告の控訴を棄却する。

2  控訴費用は一審原告の負担とする。

三  一審被告の控訴の趣旨

1  原判決中、一審被告の敗訴部分を取り消す。

2  一審原告の請求を棄却する。

3訴訟費用は、第一、二審とも、一審原告及び一審原告補助参加人らの負担とする。

四  一審原告の答弁

1  一審被告の控訴を棄却する。

2  控訴費用は一審被告の負担とする。

第二  当事者の主張

次のとおり、追加し、改めるほか、原判決の事実摘示のとおりであるから、これを引用する。

1  原判決五ページ七行目の「違法である。」を「、違法若しくは不当である。」と、末行の「違反する。」を「違反し、違法若しくは不当である。」と改める。

2  同一一ページ初行の「維持管理団体」を「維持、管理主体」と改め、一〇行目の「協議のうえ」の後に「、市の戦没者慰霊碑等維持管理費補助金交付要網及び戦没者慰霊碑等維持管理費補助金交付基準に基づき、」を加える。

3  原判決別紙〔原告ら主張の違憲、違法理由〕の四三ページ六行目の「営域」を「塋域」と改める。

4  同じ別紙の七〇ページ末行の「本件」の後に「一四碑の維持、」を加える。

5  同じく八七ページ末行の後に、次のとおり加える。

「四 補助金交付基準の違憲性

長崎市は、戦没者慰霊碑等維持管理費補助金交付要網及びその具体的基準である戦没者慰霊碑等維持管理費補助金交付基準に基づいて、補助金を戦没者慰霊碑等の維持管理者に対して交付しているが、少なくとも右補助金交付基準自体が憲法の政教分離原則に違反する疑いが濃厚である。

右補助金交付基準が『慰霊祭が施行されていないもの』を補助金交付対象碑から除外していることは、慰霊碑ごとの慰霊祭が交付の必要条件であることを意味しているが、超自然的な「霊」を慰めるということ自体が、言葉の意義からも観念としても、宗教行為であることは疑う余地がない。前記のとおり、慰霊祭がある特定の宗教を通じて行われている限り、それは明確に宗教的行為である。例えば、葬式は社会の一般的慣習である人生の一つの通過儀礼であると主張する者があるが、故人の霊や死体に対する拝礼、礼拝などを行わない完全無宗教を除いては、神道、仏教、キリスト教などのある特定の宗教を通じて行われる限り、それは宗教的行為でないとは絶対に言えない。

したがって、宗教行為と評価すべき、宗教儀礼による慰霊祭の挙行を補助金交付の条件とした右補助金交付基準は、明らかに憲法二〇条、八九条に違反する。この補助金交付基準に基づいて本件支出が行われたのであるから、その支出は、忠魂碑等の性格を論じるまでもなく、違憲である。」

6  原判決別紙〔被告に主張〕の一ページ末行の後に、改行して、次のとおり加える。

「例えば、私立学校に対する私学助成金は、私立学校法その他の法令により一律に支出されている。助成金を受けている私立学校の中には、特定の宗教団体の設立運営に係るものも多い。そして、それらの学校では、キリスト教系のものであれば、校内に礼拝堂を設け、十分架や聖母やキリストの像の宗教施設を備えている。また、生徒に対しては正規の授業で宗教教育を施し、礼拝等の宗教活動もさせている。一審原告の論理をもってすれば、このような私立学校に助成金を支出することは直ちに憲法に違反することになろう。しかし、果たしてそうであろうか。私学助成金の根拠となる諸法令とその運用は、補助をうける側の右のような宗教的属性の有無程度等を具体的に審査することなく、形式的準備に合致していれば、一律に助成金を支出しているのである。結果として特定の宗教団体を援助することになったとしても、助成金支出の目的効果からして何ら支障はなく、かえって、これが法の下の平等に適合し、憲法自体の趣旨に適うのである。本件の場合も、市補助金交付基準の内容自体が合憲であり、その運用についても対象が一定の要件を具備していれば、補助金を一律に支出しているのである。」

第三  証拠<省略>

理由

一当裁判も、一審被告の本案前の主張は理由がないと判断するが、その理由は、原判決の理由の第一の欄(一三ページ)に説示のとおりであるから、これを引用する。

二本案について、まず、当事者の各地位、本訴提起に先だち所定の監査請求手続が執られた事実、さらに、長崎市において本件補助金が支出されるに至ったいきさつ、本件補助金の交付基準及び交付実績等、本件補助金の支出に関する事実関係にそれぞれかかわる判断は、次のとおり補正するほか、原判決の理由の第二の一、二項の説示(原判決一四ページ初行から三九ページ九行目まで)のとおりであるから、これを引用する。

1  原判決一四ページ初行の「当事者」の後に、「及び監査請求前置」を、三行目の「あったこと」の後に「及び請求原因6項の事実」を加える。

2  同一五ページ五行目の「証人」の前に「原審」を加え、六行目の「の各証言、原告」を「、当審証人淵繁人の各証言、原審及び当審における一審原告」と改める。

3  同二八ページ初行の「定めた。」を「定め、市議会の承認を得た。」と改める。

三本件一四碑それぞれの現状、建立経緯、慰霊対象、管理及び祭礼の状況、本件補助金とのかかわり等、本件一四碑に関する事実については、次のとおり補正するほか、原判決の理由の第二の三項の説示(三九ページの末行から一一七ページ五行目まで)のとおりであるから、これを引用する。

1  原判決四一ページ八行目の「用いて」を「新設した台座の上に固定し、」と、四二ページ初行の「とした。」を「とすることとし、新設した台座の側面に『復元の記』として、『此の忠魂碑は大正六年浦上地区出身戦没者の慰霊顕彰のため地本関係者により建立された由緒あるもので原爆により倒壊した儘二十有余年間放置されていたものを憂思の同志相計り大東亜戦争戦没者並びに原爆殉難者の霊を合祀顕彰すべく復本を発起し広く心ある方々及び関係官庁の協賛を得て再建したものである 昭和四十四年六月十五日』と刻したが、個々の合祀者の名や数を示す表記等はされていない。」と改め、三行目の「同保存会は、」の後に「保存委員五名のほか、」を加える。

2  同四八ページ三行目の「日清戦争以後」の後に「昭和一二年六月碑建立時まで」を加える。

3  同五二ページ三行目から六行目末尾までを「碑から数メートル離れた地上に木札が建てられており、墨書で、『深堀招魂廟 明治元年戊辰の役に領主鍋島孫六郎が佐賀藩兵五〇〇人を率い倒幕軍に参加、秋田県女鹿村の戦闘で深堀藩士六名の戦死者であり、国においては明治二年に招魂社(靖国神社の前身)が創建され、深堀においても一年おくれて本招魂廟が創建され爾来第二次大戦までの殉国英霊二百三十有余柱を奉祀している』と記載されている。」と、一〇行目の「合計二三〇名を慰霊対象に加えている。」を「合計二三〇余名を右のとおり奉祀したとされているが、個々人の氏名等を表記したものはない。」と改め、五四ページ七行目の「招魂廟」の前に「深堀」を加える。

4  同五六ページ二行目の「高さ約四メートルの石碑」を「基礎からの高さ約四メートルの碑」と改める。

5  同五七ページ二行目から三行目にかけて「日露戦争以降、第二次世界大戦までの戦死者六〇四名である。」を「第二次世界大戦の戦死者六〇三名であり、碑には個々人の記名はなく、右六〇三名を記載した名簿が別に保管されている。」と改める。

6  同六一ページ六行目末尾に「なお、前記ブロック塀は、昭和五一年七月に土井ノ首地区遺族会長に就任した訴外曽根平三郎が自費で構築したものである。」を加え、八行目全部を「前記碑文によれば、西南の役以降第二次世界大戦までの戦死者であるが、右碑文は、戦後に刻まれたものであることは明らかである。合祀者の氏名等の表記等はない。」と、一〇行目の「土井首遺族会」を「土井首地区遺族会」と改める。

7  同六六ページ六行目の「福田地区の戦没者」を「前記のとおり、福田村在郷軍人分会が、碑建立時の大正一〇年二月一一日当時における戦没者を祀ったものと推測されるが、その氏名、数等を表記したものは現存していない。なお、本碑の背後にある霊璽簿収納所には、第二次世界大戦における福田地区の戦没者二八〇名の名簿が収納されているのではないかと推測されている。」と改める。

8  同六九ページ二行目の「藩族」を「蕃族」と改め、七〇ページ八行目末尾に「で、その氏名は、碑建立の際、前記戦死者氏名板に刻まれた。」を加える。

9  同七三ページ六行目の「一ないし七」を「一ないし九」と改める。

10  同七五ページ三行目の「矢上地区」の前に「日清戦争以降第二次世界大戦までの」を、同行末尾に「で、第二次世界大戦の戦没者、原爆犠牲者の氏名は、昭和三三年一月の移転の際、戦死者の氏名を刻んだ既存の石に追加して刻まれた。」を加える。

11  同七八ページ末行の「犠牲者」を「の際死亡した町の功労者」と改める。

12  同七九ページ二行目の「一七五名」から三行目末尾までを「、原爆による死亡者一七五名を碑建立の際に台座に刻み、その後、長崎大水害の際に死亡した町の功労者の氏名を追加して刻んだ。」と改める。

13  同八二ページ七行目の「戦没者。」を削除し、八行目の末尾に「の氏名が本碑近くの供養塔に刻まれており、遺族会ではこれを本碑の慰霊対象としている。」を加える。

14  同八四ページ末行の「台座背面」を「碑の背面及び台座の正面」と改める。

15  同八五ページ末行から次ページ初行末尾までを「昭和七年建立の際に、碑の背面に数名の戦死者の氏名及び戦死の年月日が刻まれていたが、戦後の再建の際に、新しく設けた台座の正面に『戦没陸海軍人軍属並びに戦争犠牲者』と題して、多数の氏名を刻み、合わせて慰霊対象とした。」と改める。

16  同八九ページ四行目の「約」の前に「高さ」を、九〇ページ末行の「三重」の後に「村」を加える。

17  同九一ページ二、三行目全部を「忠魂碑は、明治大正年間の戦没者九名で、その氏名が台座に刻まれており、慰霊碑は、三重地区の第ニ次世界大戦戦死者二五〇名で、前記第二次世界大戦殉国者記名碑に氏名が刻まれている。」と改める。

18  同九七ページ七行目の「再現するため、」の後に「創建当時の写真に基づき、」を、末行の「堀り出した。」の後に「塔の先端の砲金製の鉾及び台座の『長崎奉公会』の銅製文字板は、公園管理人が防空壕内に保管していたものを取り付けた。」を加える。

19  同九九ページ七行目全部を「創建当時は、戊辰の役以降日独戦争までの長崎市出身の戦没者を祀ったもので、その後、戦役、事変の戦没者を合わせて祀ったとされているが、氏名、数などを示すものは存在しない。」と改める。

20  同一〇一ページ八行目の「第二四号証、」の後に、「第三一号証、」を加える。

21  同一〇三ページ四、五行目の「碑に祀られている」を「当地(旧梅ケ崎墳墓地)に遺髪が埋葬されている」と改め、六行目の「さらに」の後に「漢詩と」を加え、一〇四ページ八行目の「正四角柱の」の後に「花崗石の」を加える。

22  同一〇六ページ七行目から一〇九ページ初行末尾までを、次のとおり改める。

「 慶応四年一月二八日、九州鎮撫総督澤宣嘉は、当時幕末の世情不安な長崎の外人居留区の保護、奉行所警備、市内警ら等の任に当たっていた遊撃隊の組織を改めて振遠隊を編成し、有事応急に備え、兼ねて長崎表の警衛に当たらせることとした。編成当初、隊員数は三三七名で、その後増加があった。明治元年七月九日、京都朝廷から奥羽地方に出兵方の依頼があり、明治元年七月一九日、隊員三一八名、軍属四五名が英国汽船フィーロン号で長崎を出発し、同月二三日秋田港に上陸した後、奥羽各地を転戦した。同年一〇月一五日、奥羽征討軍は解散となったが、この日までに隊員一六名が戦死した。戦死者の遺体は現地の仏寺の墓地に葬られたが、その遺髪、遺品を生存隊員が持ち、同年一〇月一九日、盛岡を出発して陸路帰途についた。同年一二月二日、京都大宮御所で賜宴を受け、神戸から商船に乗船し、同月二〇日長崎に帰還した。

隊員らが帰還途上にあった一一月一五日、隊員家族に対し、戦死者については、大楠神社境内に招魂場を造営し、永く祭祀をすることになったから、そのように心得られたい旨の布達があり、同年一二月には、戦死者の遺髪、遺品の差出し方の布達があった。

現在の長崎市西小島町は、古くから梅ケ崎と呼ばれ、寛永元年、同地に大徳寺が建立されていたが、明治維新とともに廃寺となり、明治元年、観音堂跡地に楠木正成と名和長年を祭神とする大楠神社が新設された。同年一二月、大楠神社境内の空地に、官費により、戊辰戦争の戦没者のための招魂場が造営され、同月二七日葬祭が執行された。式上、各遺族は振遠隊員の遺髪等を納めた小棺を墳中に置き、普請方が指揮する役夫が埋葬し、墳上に墓標を建てた。墓標は一六基であり、墓標には、右側面に「於出羽国秋田領岩崎川役戦死」、正面に「分隊令官 島田虎次郎為章神霊」、左側面に「明治元年戊辰八月八日 葬羽州平鹿郡 青光寺」、背面に「享年二七歳」のように記載された。翌明治二年二月四日に京都で病死した隊員一名の葬儀が行われ、墓標は一七基となった。同年六月一四日には長崎出身の函館海戦戦死者二三名の葬儀が行われた。

明治五年二月二二日、長崎県は振遠隊の解隊を命じ、明治九年九月までに解隊を了したが、明治五年二月、警察制度が施行され、隊員のうち六〇名が邏卒に採用され、明治八年に邏卒は巡査と改称された。

明治一〇年に佐古招魂社が造営されたため、本招魂場は、梅ケ崎招魂場又は梅ケ崎招魂社と呼称されるようになった。

明治一二年一二月二六日、元振遠隊員であった者数名が私費で梅ケ崎招魂場内西北隅に振遠隊戦士遺髪碑を建立した。その碑文は、正面上部に横書で「振遠隊戦士遺髪碑」と刻み、その下に漢文で、振遠隊が明治元年七月一九日長崎を出発し、二三日秋田に上陸し、奥羽地方を転戦した戦記と、隊員一七名が戦死したこと、函館の役で、朝陽艦に乗船していた振遠隊員二名が戦死したこと、楠公神社の側に招魂場を新築し、遺髪を埋葬したことを刻み、続けて、忠義と勤王のために生死を顧みなかったことをたたえる趣旨の漢詩が刻まれている。

本碑は、戦後の昭和三七年に、梅ケ崎墳墓地から佐古墳墓地内の軍人軍属合葬之碑の隣に移設された。」

23  同一一一ページ初行の「議があり、」の後に「明治一五年一〇月に移転工事に着手し、」を加え、五行目の「完成し、」を「八月に完成し、同年一〇月一四日から三日間」と、末行の「配置された。」を「配置され、祭典の際には、人々はこの場所から敬拝を行うこととされた。」と改め、一一二ページ二行目末尾に「三段、四段には、西南の役の戦死者の墓碑七〇七基があるが、その中に警部、巡査の墓碑一三二基がある。」を加える。

24  同一一三ページ七行目から次ページ初行末尾までを「軍人軍属合葬之碑は、碑の正面に、編修副長官重野安繹が撰じた漢文による長文の碑文が刻まれ、その中には、『招魂』の文字も見える。側面には、台湾の役及び西南の役の戦死者五五五名の氏名が刻まれている。

振遠隊戦士遺髪碑は、前記のとおり碑の正面に漢文及び漢詩が刻まれ、振遠隊員の奥羽地方転戦の模様や、この地(旧梅ケ崎墳墓地)に隊員一九名の遺髪、遺品を埋葬した経緯が記されているが、後記のとおり、本碑は、記念碑で、霊を祀るという趣旨の碑ではないと認められる。」と、末行の「佐古梅ケ崎坂本墳墓保存会及び地元自治会、PTA、民生委員、長崎県警友会(警察OB会)の共催で執行され、長崎県警友会連合会長、県連合遺族会長等が参列し、来賓の献辞には、殉職警察官を追悼する趣旨の言葉がある。」と改める。

四本件補助金支出が憲法八九条前段、二〇条一項後段、三項、地方自治法二三二条の二の各規定に違反する旨の一審原告の主張について検討する。

1  いわゆる忠魂碑の一般的な建立経緯や取扱いの状況、その宗教施設性並びに招魂社一般については、原判決一一七ページ八行目から一三一ページ九行目まで(一二〇ページ六行目の「瑩域」を「塋域」と改める。)及び一三二ページ九行目から一三四ページ九行目までのとおりであるから、これを引用する。

2  一審原告は、本件一四碑に対する補助金の支出は、①本件各碑が宗教施設であり、②支出を受ける者が宗教上の組織、団体であり、③慰霊祭という宗教儀式を行うことを条件とするもので、市が英霊信仰の宗教教育ないし宗教活動を行うことに当たるから、憲法の右各条項に違反し、また、違法若しくは不当な支出に当たると主張するので、本件各碑につき、以上の各認定事実に基づいて検討する。

(一)  番号1 天主公園「忠魂碑」

(1) 本碑は、大正六年に浦上地区在郷軍人会が同地区出身の日清、日露戦争の戦没者を慰霊対象として建立したものを、昭和四四年六月に第二次世界大戦戦没者及び原爆殉難者の霊を合祀し、顕彰するために、野ざらしになっていた碑石を用いて再建されたものであるが、忠魂碑という碑文や、それが明治二年の東京招魂社の創建、明治一二年の靖国神社への改称等の後に、敬拝の対象として創建されたものであること等、右1引用の認定説示の沿革からすれば、本碑は、もともとは、天皇に忠誠を尽くして戦死した者の霊魂は神霊たる忠魂となり、本碑に祀られているという国家神道の教義を具現する施設として、右教義を信奉する者により、創建され、維持されてきたものとみることができる。そして、昭和四四年に有志と地元自治会が再建し、慰霊対象に地元の第二次世界大戦戦死者及び原爆死亡者を加え、合祀、顕彰することとしたが、忠魂碑という碑文そのものは存置されていることからすれば、本碑が本来有してした宗教的施設としての客観的性質自体が全面的変化し、払拭されたものとは即断し難い。

しかし、他方、先に引用の沿革、とりわけ戦後の変せんにかんがみると、忠魂碑は、戦没者ないし戦争犠牲者を世に顕彰し、記念するための施設という意味をも合わせ持っているということができる。今日の日本社会では忠魂碑を宗教施設としてよりも、右に述べた戦争犠牲者顕彰し、記念するための施設と考える者も多いとみられる。そして、戦争犠牲者らを社会的に顕彰し、記念する施設の存在は、その者らの遺族に対する慰藉、すなわち、精神的援護となり、また、市民がその施設について慰霊祭等を行い、殉死者を追悼し、顕彰し、殉死者に感謝する意思表明を行う機会を設けることは、より一層右の趣旨にそうものと考えられる。

また、今日においては、忠魂碑は、これを歴史的遺構ないし記念物として、歴史学上保存するに値するものとして、その存在意義を認める立場もあり得ると考えられる。

したがって、今日において、忠魂碑は、これを観察する国民一般の側からすれば、①国家神道の教義を具現する宗教施設、②戦争犠牲者や社会のために没した者を後世に顕彰し、記念する施設、③歴史的遺構、というような複数の意味を合わせ持っているものであり、市が右②や③の意義があることに基づいて、忠魂碑を維持、存続させることには社会的意義があるとしていても、それが一つの宗教的施設を維持、存続させるという結果を合わせ持つに至ることは否定することができない。

(2) ところで、今日の日本社会において、国家神道思想ないし忠義、忠誠の対象が神絡化された天皇であるというような思想は、もとより国是からも廃止され、戦没者が神霊たる忠魂となるという英霊思想は国民一般の心情から消滅し、過去のものとなっていることは明らかであって、今日存在する忠魂碑は、その客観的性質として、右①の趣旨を一面になお保有しているとしても、それを観察する国民一般の側がその趣旨での感化を受けるような精神文化的状況にはなく、日本国民にとって、そのような精神文化的状況もまた、既に過去のものであると考えられる。

他方、今日の我が国において、日清、日露戦争から第二次世界大戦に至る戦没者ないし戦争犠牲者の遺族、子孫は多く実在しており、忠魂碑が、戦没者らを世に顕彰し、記念するという趣旨で存在することには、現実的、社会的な意義があり、その存在意義は、忠魂碑がもともとは国家神道の宗教施設であることから生じる弊害を克服するに足りるものであると考えられる。

したがって、地方公共団体である市が、忠魂碑の維持、管理のために、本件補助金程度の公金を支出することは、その目的及び効果はもっぱら戦没者ら遺家族の精神的援護という社会福祉にあり、付随的に生じる地方公共団体と宗教とのかかわり合いの程度、市民に与える宗教的影響などは極めて軽微であり、特定宗教に対する援助、助長、促進又は圧迫、干渉等の影響も無視し得る程度に小さいということができるのであり、本碑の維持、管理のための本件補助金の支出は、憲法八九条、二〇条一項、三項に違反する違法ないし不当な支出には該当しないというべきである。

(3) 次に、本件補助金の支出は、本碑につき慰霊祭が行われていることを要件とした市補助金交付基準に基づいてされているのであるが、前記認定のとおり、本件補助金の支出は、昭和四七年に長崎県が戦没者慰霊祭碑等維持管理費補助金交付要綱を制定し、財団法人長崎県連合遺族会に対し補助金を交付したことに始まるもので、本来社会福祉的な意義のものと認められる。また、本碑の前での慰霊祭は、神式とカトリック式を交互に採用しているところ、いずれの式次第にも共通しているのは、来賓の追悼、顕彰、感謝の言葉と遺族代表謝辞であることからうかがわれるとおり、本碑の慰霊祭において重要なのは、市民を代表する来賓の戦没者に対する追悼、顕彰、感謝の意思表明であり、その余の式次第は、右の意思表明の場を厳粛にするために、いずれかの既存宗教の儀式を適宜採用しているにすぎないとも見得るものである。そらに、本件補助金の支出は、慰霊祭の開催を要件としているが、慰霊祭に宗教の儀式を用いるか否か及び用いる場合にいかなる宗教の儀式を採用するかについては何らの関心を持っていないこと等の事実に照らすと、市補助金交付基準に定める右要件は、戦没者遺族に対する精神的援護という趣旨をより徹底させる意味合いを持つにとどまり、何らかの宗教を助成し、あるいは排除するという趣旨を含むものではないというべきである。

もっとも、本碑の維持、管理主体に対する市の補助金の交付は、例年右主体が本碑について、既存宗教の儀式を用いて慰霊祭を行っていることの認識に立って行われていることは明らかであるから、この点においても、市は既存宗教とのかかわりを持つに至っていることを否定することができない。しかし、前記のとおり、右主体が慰霊祭に既存宗教の儀式を用いている趣旨は、戦没者に対する追悼、顕彰、感謝の意思表明の場を適宜設定するための方策という以上に出ないことが認められることに照らし、なお、市と宗教とのかかわり合いの程度は軽微ということができるものである。

したがって、右交付基準に基づき本件補助金を支出したことが、市が英霊信抑の宗教教育ないし宗教的活動をしたことになり、憲法二〇条三項に違反するとの一審原告の主張は肯認することができない。

(4) また、一審原告は、本碑の維持、管理主体である浦上地区忠魂碑保存会は宗教上の組織又は団体ないしは宗教団体に当たると主張し、右保存会に対する本件補助金の交付は憲法八九条、二〇条一項に違反すると主張する。

そして、右保存会が本碑の前で隔年に神式又はカトリック式で慰霊祭を挙行していることは前記認定のとおりである。

しかし、このことから直ちに、右保存会は超自然的な霊の存在を信じ、その霊を慰めたり、その霊から加護を受けたりすることができるという教義を信奉する宗教上の組織ないし団体であるとの一審原告の主張は肯認し難い。むしろ前記のとおり、慰霊祭の執行は、神式とカトリック式を適宜採用していることや、右保存会の構成員は、保存委員五名、戦没者遺家族、原爆殉難者遺家族、旧山本校区各自治会、旧在郷軍人会、統剣道連盟であり、構成員の中には個別的に何らかの宗教を信奉している者もあると思われるが、その宗教にはかかわりなく保存会に参加していることがうかがわれること等に照らすと、右保存会は、本碑を維持、管理し、かつ、前記のような慰霊祭を執行することによって、市民が戦没者に対し、追悼、顕彰、感謝の意思を表明し、もって戦没者遺族に対する精神的援護をすることのみを目的とする人々の集合体にすぎず、本碑の前で神式やカトリック式で慰霊祭を行っていても、神道やカトリック教の宗教上の組織又は団体には該当しないというべきである。

(二)  番号2 式見小学校「忠魂碑」

本碑は、昭和一二年に建立されたもので、碑文は忠魂碑であり、日清戦争以降昭和一二年までの式見地区の戦没者を祀り、礼拝するために創建されたもので、現在もそのまま存置されており、これもまた国家神道を具現する宗教的施設として建立され、維持されてきたものであり、その性質は全面的に変化し、払拭されてはいないというべきである。

一審原告は、本碑の維持、管理主体である式見遺族会が宗教上の組織ないし団体に当たると主張するが、<書証番号略>、原審証人森口寛一、同若杉鉄雄、同東政則の各証言によれば、右遺族会は、財団法人長崎県連合遺族会の支部である長崎市遺族会の下部組織であるところ、右長崎県連合遺族会の寄付行為に掲げられた会の目的によれば、右連合遺族会は、戦没者の追悼、顕彰、遺族の相互扶助、遺族の福祉の向上に関する事業の推進等を目的とする団体であって、国家神道あるいは何らかの宗教の宣伝、布教等、宗教的活動を目的とする者の団体であるとは認め難く、憲法二〇条一項にいう宗教団体や、同法八九条にいう宗教上の組織若しくは団体には該当しないと認められる。

そして、本碑に関する慰霊祭は、右遺族会、軍恩連式見支部、傷痍軍人式見支部及び式見連合自治会の主催で、毎年一〇月に寺において仏式で執行されているのであるが、これも慰霊祭の方式として主催者が任意に取り決めた事柄にすぎないものと認められる上、本件補助金の支出は、右方式による慰霊祭の執行を要件としてされたものでもないことが認められるから、右遺族会が右方式による慰霊祭を執行していることをもって、本件補助金の右遺族会に対する支出が宗教上の組織ないし団体に対する公金支出に当たるとする一審原告の主張も採用することができない。

したがって、市が式見遺族会に対して本件補助金を交付したことは、それが宗教とのかかわり合いを有する程度が極めて軽微である上、それに伴う反価値性を上回る現実的、社会的価値ないし意義を有するものというべきであるから、市がした本件補助金の交付は、憲法八九条、二〇条三項に違反するものではなく、違法、不当な公金支出に当たらないというべきである。

(三)  番号3 深堀神社境内「招魂廟」

本廟は、前記の木札に記載された由来によれば、明治二年に東京招魂社が創建されたのに続いて、翌明治三年に戊辰戦争における深堀地区の戦死者六名の霊を祀るために建立されたもので、東京招魂社と設立の趣旨を同じくするものであり、もともとは国家神道の教義を具現する宗教施設というべきである。

しかし、前記認定のとおり、本廟は、今日では、第二次世界大戦までの戦没者二三〇余名をも合わせて戦没者を慰霊、顕彰し、遺族の精神的援護をする趣旨で、毎年一回、各町内から二、三名の人が出て構成している深堀招魂廟奉賛会が神式で慰霊祭を執行し、慰霊祭は遺族代表の謝辞をもって終了しているものであり、社会福祉的意義をもって維持、管理されているということができる。また、本廟は、前記木札記載の建立の経緯や年代からすれば、今日では歴史的遺構としての存在意義も比較的強いと認められる。そして、本廟の維持、管理主体は、前記深堀招魂廟奉賛会であるが、右奉賛会は、各町内から適宜数名の担当者が選ばれ、それらの者によって構成されているものであることに照らすと、同会が宗教上の組織ないし団体であるとは認められない。

したがって、市が同会に対して本件補助金の交付をすることは、それが宗教とのかかわり合いを有する程度は極めて軽微である上、それに伴う反価値性を上回る現実的、社会的価値ないし意義を有するものというべきであるから、市がした本件補助金の交付は、憲法八九条、二〇条三項に違反するものではなく、違法、不当な公金支出に当たらないというべきである。

(四)  番号4 裳着神社内「殉国慰霊塔」

本碑は、戦後の昭和三三年に当時の茂木町が第二次世界大戦の戦死者六〇三名を追悼し、顕彰、記念するために建立したもので、国家神道の宗教施設ではなく、非宗教的な慰霊、顕彰のための碑である。

なお、「慰霊」という言葉は、本来、霊という超自然的な存在を信じ、それに対して人が働きかけ、慰めることができるという宗教的な観念を含んでいるものであるが、今日では、現存する遺族の境遇、心情を念頭に置いて、死没した者を追悼、顕彰し、遺族を慰藉するという非宗教的な意味で用いられ、むしろ宗教性を避けた言葉として用いられていることは、前判示のとおりである。また、本碑の碑文にいう「殉国」の語も、国家、社会のためとして犠牲になったという追悼、記念の趣旨を表わしたものというべきである。

本碑の前での慰霊祭は、毎年八月一五日の終戦記念日に茂木遺族会の主催で神式により行われているが、これは前記財団法人長崎県連合遺族会寄付行為にいう戦没者遺族の慰藉、救済の目的にそった行為にほかならないと認められる。

したがって、本碑の維持、管理主体である茂木遺族会に対してした本件補助金の交付が憲法八九条、二〇条に違反する違法、不当な公金の支出にあたるとの一審原告の主張は肯認することができない。

(五)  番号5 三和町大山祇神社内「殉国忠魂碑」

本碑は、明治三九年一〇月に、土井首一〇か町が西南の役以降日露戦争までの同地区の戦没者を祀るために建立し、戦後、右建立時以降第二次世界大戦までの戦没者を合祀するとされたもので、その碑文や建立の年代からみて、もともとは国家神道の教義を具現する宗教施設として建立されたものである。

本碑の前での慰霊祭は、土井首遺族会が毎年八月一五日に行うが、既成宗教の儀式は採用せず、参列者が拍手、焼香、黙など好みの方式で礼拝し、正午に全員が黙するという点が特徴的である。

本碑の維持、管理主体である土井首遺族会への本件補助金の交付が、憲法八九条、二〇条に違反する違法、不当な公金の支出に当たるとの一審原告の主張は、右(一)及び(二)において説示したところと同様の理由により肯認することができない。

(六)  番号6 福田天満神社境内「忠魂碑」

本碑は、大正一〇年に、福田村在郷軍人分会によって建立されたもので、慰霊対象は建立当時における同地区の戦没者であったが、戦後、第二次世界大戦における福田地区の戦没者二八〇名を合祀したとされている。本碑の碑文、建立年代、背後の霊璽簿収納所と呼ばれる社の存在などを合わせ考えると、本碑も、もともとは国家神道の教義を具現した宗教施設というべきである。

本碑の前での慰霊祭は、福田地区連合自治会が毎年三月二五日に神式により執行している。

本碑の維持、管理主体である福田地区連合自治会に対してした本件補助金の交付が、憲法八九条、二〇条に違反する違法、不当な公金の支出に当たるとの一審原告の主張は、右(一)及び(二)において説示したところと同様の理由により肯認することができない。

なお、一審原告は、右福田地区連合自治会も宗教行事を実施すれば、宗教上の組織ないし団体というべきであると主張するが、前記浦上地区忠魂碑保存会について述べたと同様の理由により、右主張は採用することができない。

(七)  番号7 古賀八幡神社境内「殉国慰霊祭」

本碑は、戦後の昭和三〇年に古賀村殉国慰霊塔建設協賛会が日露戦争以降第二次世界大戦までの古賀地区の戦没者の追悼、顕彰のために建立したもので、前記(四)の裳着神社内「殉国慰霊塔」と同様、国家神道その他の宗教的施設ではなく、慰霊、顕彰のための碑である。

本碑の前での慰霊祭は、古賀地区遺族会が毎年四月三〇日に仏式により執行している。

本碑の維持、管理主体である古賀地区遺族会に対してした本件補助金の交付が、憲法八九条、二〇条に違反する違法、不当な公金の支出に当たるとの一審原告の主張は、右(四)において説示したところと同様の理由により肯認することができない。

(八)  番号8 矢上神社境内「殉国慰霊塔」

本碑は、昭和九年に矢上村在郷軍人分会が、日清、日露戦争から第一次世界大戦までの戦没者を祀るために、碑文を「忠魂碑」として建立したものを、戦後の昭和三三年一月に現在地に移転するとともに、碑文を「殉国慰霊塔」と彫り直し、かつ、矢上地区の第二次世界大戦の戦没者及び原爆犠牲者を慰霊対象として加えたもので、国家神道の教義を具現した宗教施設としての意義は消滅しており、非宗教的な慰霊、顕彰のための碑である。

本碑の前での慰霊祭は、矢上校区自治会連合会及び矢上地区遺族会の共催で、毎年四月ないし五月に神式により執行している。

本碑の維持、管理主体である矢上地区遺族会に対してした本件補助金の交付が、憲法八九条、二〇条に違反する違法、不当な公金の支出に当たるとの一審原告の主張は、右(四)において説示したところと同様の理由により肯認することができない。

(九)  番号9 戸石神社敷地内「殉国慰霊塔」

本碑は、戦後の昭和三一年に、戸石地区住民が同地区の日清、日露戦争の戦没者二名、第二次世界大戦の戦没者一七五名を追悼するために建立し、その後、昭和五七年の長崎水害の際死去した地区の功労者の氏名を追加して刻んだもので、前同様、国家神道その他の宗教施設ではなく、慰霊、顕彰のための碑である。

本碑の前での慰霊祭は、戸石地区連合自治会が、毎年四月又は五月に、神式で執行している。

本碑の維持、管理主体である戸石地区連合自治会に対してした本件補助金の交付が、憲法八九条、二〇条に違反する違法、不当な公金の支出に当たるとの一審原告の主張は、右(四)において説示したところと同様の理由により肯認することができない。

(一〇)  番号10 小ケ倉町大山祇神社境内「忠魂碑」

本碑は、大正四年に、小ケ倉村在郷軍人分会が小ケ倉地区の日露戦争の戦没者二名を祀るために建立したもので、戦後、本碑近くに設けた供養塔に同地区の第二次世界大戦の戦没者等七七名の氏名を刻んだが、その時以降、本碑の慰霊対象に右戦没者等を追加したものとしている。本碑は、碑文及び建立の経緯からみて、もともとは国家神道の教義を具現した宗教施設とみられる。

本碑の前での慰霊祭は、昭和五七年まで、小ケ倉地区自治会連合会及び小ケ倉地区遺族会が神式又は仏式で執行していた。

本碑の維持、管理主体である小ケ倉地区遺族会に対してした本件補助金の交付が、憲法八九条、二〇条に違反する違法、不当な公金の支出にあたるとの一審原告の主張は、右(一)及び(二)において説示したところと同様の理由により肯認することができない。

(一一)  番号11 養国寺境内「忠魂碑」

本碑は、昭和七年ごろ、日見村在郷軍人会が明治以降昭和七年までの日見地区の戦没者数名を祀るために日見小学校敷地内に建立し、終戦後撤去されていたものを、昭和二六年に日見遺族会及び有志が養国寺内に再建し、更に昭和五七年に現在の場所に移築したもので、戦後の再建の際に、多数の戦没者、戦争犠牲者の氏名を刻んだ台座を追加し、慰霊対象とした。本碑のうち、忠魂碑という碑文を刻んだ自然石の石碑の部分は、もともとは国家神道の教義を具現した宗教施設として創建されたものである。

本碑の前での慰霊祭は、日見遺族会(長崎遺族会日見支部)の主催により、毎年春秋の彼岸の中日に、仏式で執行されている。

本碑の維持、管理主体である日見遺族会(長崎遺族会日見支部)に対してした本件補助金の交付が、憲法八九条、二〇条に違反する違法、不当な公金の支出に当たるとの一審原告の主張は、右(一)及び(二)において説示したところと同様の理由により肯認することができない。

(一二)  番号12 三重皇大神宮境内「忠魂碑」「慰霊之碑」

本碑二碑のうち、忠魂碑は、昭和三年に三重村が明治、大正年間の同村の戦没者九名を祀るために建立したもので、もともとは国家神道の宗教施設とみられるが、慰霊之碑は、戦後の昭和四二年に三重遺族会が三重地区の第二次世界大戦の戦没者二五〇名を慰霊対象として建立したもので、宗教施設ではなく、記念碑である。

慰霊祭は、右二碑の前で、三重遺族会及び三重地区自治会で構成する三重地区殉国慰霊奉賛会の主催により毎年一一月に神式により執行されている。

本碑の維持、管理主体である三重遺族会に対してした本件補助金の交付が、憲法八九条、二〇条に違反する違法、不当な公金の支出に当たるとの一審原告の主張は、右(一)、(二)及び(四)において説示したところと同様の理由により肯認することができない。

(一三)  番号13 長崎公園内「忠魂碑」

本碑は、昭和五年に長崎奉公会が戊辰戦争から第一次世界大戦に至るまでの市出身の戦没者を祀るために建立し、戦後撤去されたものを、昭和四三年に、長崎市忠魂碑復元委員会が残存していた碑柱、先端の鉾、長崎奉公会の文字板を用い、その他は創建当時の写真等に基づいて新たに製作し、荘厳味を出すために、創建時にはなかった真鍮製の索を取り付け、復元したものであり、もともとは国家神道の教義を具現した宗教施設を復元したものということができる。

本碑の前での慰霊祭は、長崎県郷友会(日本郷友連盟長崎県支部)の主催により、毎年五月二三日ごろ、神式により執行されている。

本碑の維持、管理主体である長崎県郷友会(日本郷友連盟長崎県支部)に対してした本件補助金の交付が、憲法八九条、二〇条に違反する違法、不当な公金の支出に当たるとの一審原告の主張は、右(一)及び(二)において説示したところと同様の理由により肯認することができない。

なお、<書証番号略>、証人大坪栄の証言によれば、長崎県郷友会(日本郷友連盟長崎県支部)は、「英霊の顕彰に関する事項」を団体の目的に掲げているが、この点は、前記の財団法人長崎県連合遺族会においても同様であり、右の事業目的や、本碑の前で神式により慰霊祭を執行していることをもって、長崎県郷友会が宗教上の組織ないし団体であるとする一審原告の主張は、肯認することができない。

(一四)  番号14 佐古梅ケ崎招魂社「軍人軍属合葬之碑」「振遠隊戦士遺髪碑」

(1) 軍人軍属合葬之碑は、明治一六年に官費により建立されたもので、台湾の役及び西南の役の、ほぼ日本全国にわたる戦没者一一九一名の合葬、改葬の経緯等を記した記念碑の性格をも持っているが、記念碑であるにとどまらず、右戦没者を祀る招魂社ないし招魂場の中枢的構築物として創建されたもので、いわゆる招魂碑というべきものであり、この点において、国家神道の宗教施設として建立され、維持されてきたものということができる。昭和一七年の県護国神の創建とともに招魂社ないし招魂場は廃止されたが、本碑は、碑文中の「招魂」の文字や、参道に残る石灯籠との位置関係等も合わせて見ると、招魂碑としての客観的性質が消失して単なる記念碑としての性質のみが残っているものとは認められない。

振遠隊戦士遺髪碑は、明治一二年に旧振遠隊員有志が戊辰戦争で戦没した同隊員一九名の墓碑のある梅ケ崎墳墓地内に建立したものを、昭和三七年に現在地に移転したものであるが、前記認定の建立の時期、場所、建立者、碑文等に照らすと、振遠隊員の長崎出発から奥羽地方転戦の模様、戦死者の遺髪を当地(梅ケ崎墳墓地)に埋葬するに至った経緯を後世に残す趣旨で、振遠隊員の墓地の北西隅に建立したもので、専ら史実の記録及び功績の伝承を目的としたいわゆる記念碑として建立されたものであり、本碑に振遠隊員の霊を祀り、礼拝するために建立されたものではないと認められる。したがって本碑は、歴史的遺構としての意義が大きいと考えられる。

(2) 慰霊祭は、軍人軍属合葬之碑の前で、佐古梅ケ崎坂本墳墓保存会及び地元自治会、PTA、民生委員、長崎県警友会(警察OB会)の共催で、毎年三月二一日に神式により執行されている。

軍人軍属合葬之碑の慰霊対象は、台湾の役及び西南の役の戦没者であるが、その中には、西南の役で殉死した多数の警察官が含まれているため、慰霊祭には、殉職警察官を追悼し、顕彰するという趣旨が含まれているのが特徴的である。本碑の慰霊祭も遺族代表謝辞をもって終了している。

(3) 結局、本碑二碑のうち、一基は記念碑で、一基は記念碑兼招魂碑であるが、これらの碑の維持、管理主体に対して市が本件補助金を交付することが、前記(三)の深堀神社境内「招魂廟」の維持、管理主体に対して補助金を交付する場合に比較して、市の宗教とのかかわり合いが特に強いと目すべき事由は何ら見いだし難く、本碑の維持、存続も、社会福祉上の事業及び歴史的遺構ないし記念物の維持、保存として、市と宗教とのかかわり合いが幾分存在することによる弊害を克服するに足りるだけの社会的意義を有するものというべきである。

本碑二碑の維持、管理主体である長崎県郷友会(日本郷友連盟長崎県支部)は、前記のとおり、宗教上の組織ないし団体には該当しないと認められる。

したがって、右団体に対してした本件補助金の交付が、憲法八九条、二〇条に違反するとの一審原告の主張は、肯認することができない。

3  (地方自治法二三二条の二に違反する旨の主張について)

今日において、本件一四碑は、戦没者ないし戦争犠牲者、更には社会のために没した者を追悼し、顕彰、記念し、遺族や子孫の精神的援護をするという社会福祉的な趣旨で公益性をもって維持、管理されているものであり、かつ、そのうちいくつかは歴史学上有意義な遺構として、公益性をもて存在するものである。

これらの碑の維持、管理につき、地域住民等の自発的な労務や金銭の出えんに全面的に依存することなく、社会通念上妥当な範囲内の金額の公金を支出することは、地方自治法二三二条の二にいう公益上必要がある場合に当たるというべきである。

本件補助金は、本件各碑につき年額四万円というものであって、前記認定のとおり、本件各碑の維持、管理について、維持、管理主体が実際に支出している費用のほぼ半額程度であり、また、その金額が市の財政に与える影響も比較的軽少といえるものである。

これらの点から見て、本件補助金の交付が地方自治法二三二条の二の規定に違反するものとは認め難い。

なお、一審原告は、本件補助金の支出は、憲法の理念である国民主権、平和主義、基本的人権主義、法の下の平等、政教分離、信教の自由に反するものであるから、公益上の必要がないと主張するところ、前記のとおり、本件一四碑のうち、戦前に建立されたもので忠魂碑という碑文を有するものや招魂廟、軍人軍属合葬之碑などについては、憲法が定める国民主権、平和主義、基本的人権尊重主義、法の下の平等、政教分離の理念に反する思想、教義に基づいて構築された施設であるとの意味をなお保有している面のあることを否定することができない。

しかし、前記のとおり、現今の日本社会の精神文化は、これらの碑の持つ右の意味が国民一般に及ぼす精神的影響を重大視しなければならないような状況にはなく、その弊害性は多分に観念上のものにすぎないというべきであり、他方、これらの碑が存在し、市民により例年慰霊祭が執行されることによって、戦争犠牲者等の遺家族や子孫の慰藉ないし精神的援護がされるという現実的、社会的意義は、それら遺家族に対する金銭的援護等の方策と合わせて、十分尊重するに値するというべきである。

したがって、右忠魂碑等が現行憲法の理念に反する思想、教義を多少とも具有している面のあることを重大視して、その維持、管理のための本件補助金の支出が地方自治法二三二条の二にいう公益上必要がある場合に該当しないとする一審原告の主張は肯認することができない。

五以上認定説示のとおりであるから、本件一四碑の各維持、管理者に対する本件補助金の各支出が違憲、違法であり、不当であることを前提とする一審原告の代位による一審被告に対する本訴請求は、すべて理由がなく、棄却を免れない。

よって、原判決中、本件一四碑のうち原判決別紙三記載の番号14の碑の維持、管理主体に対する補助金交付が違憲であることを前提とし、この点に係る一審原告の請求を認容した部分は失当であり、一審被告の控訴は理由があるから、一審被告の控訴に基づき原判決中右部分を取り消し、右部分に係る一審原告の請求を棄却し、原判決中その余の部分は正当であり、一審原告の控訴は理由がないからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき行政事件訴訟法七条、民訴法九六条、八九条、九三条、九四条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官奥平守男 裁判官石井義明 裁判官牧弘二は、転補のため、署名、押印することができない。裁判長裁判官奥平守男)

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